父への回憶 一

断腸の思い

 
 父を見送り、五日を過ぎた今でも、私は机の前で呆然と時を過ごしているだけだ。墨を磨り、筆を執っても、在りし日の父の面影が脳裏をかすめていく。
 私が幼少の頃、父は病弱で一週間の半分は寝込んでいた。その傍らで、困っていた母は微かに涙ながらにぼやいていた気がする。そんな父は、兄と私をよく枕元に呼び、物語を聞かせてくれた。その話の内容は、俗世間から逃避していく父の姿のようにも思えた。私たち子供にとって、決して愉快な話ではなかったが、長生不死の薬を煉丹した父は、雲に乗り、空のかなたへと飛んでいった。「風雨塵埃の毎日は、一切みな空のもの、風を受け、空に舞い上がり、自由に移動する。これはいろいろな事物を堪えてきたものにのみ授かる術である」今思い起こせば、すべて『列仙伝』の話であった。その話が終わるとまた、枕元にある漢文の本を読みふける父であった。

 私は断腸の思いの中で詩を作ったが、とても父の死を直接受け止められず、次のようになった。

    思亡父        亡父を思う
   臥床煉丹鮮人知    床に臥し丹を煉るは人の知ること鮮なし
   七十天寿脱塵累    七十天寿塵累を脱す
   独得仙期乗雲去    独り仙期を得て雲に乗って去る
   何須煩人不堪悲    何ぞ須く人を煩わし悲しみに堪えざらんとす

    実は、父は病床にありながらも長生不死の薬を煉丹していたことは、ほとんどの人が知らない。
    七十歳になり、天寿を得て、俗世間より逸脱する仙人となる時期が来たことをひとり知り、雲に
    乗り、登仙して逝ったのだ。そんなことは知らずに私たちは自然と悲しみというものにどうして
    も堪えきれなくなっている。

 父は元来、身体が弱かったため、書を生業としたらしい。私の眼球を通して見る父は、決して「生業」というもので片づけてはいなかったように思える。父にとって「書」というものは、時として龍と戦う魔物のように思えた。父は小手先だけの書をたいへん嫌っていて、書を揮毫する時の硯は異常なくらい大きく「墨はバケツ一杯くらい磨り、発墨をもってする」これは父の口癖であった。そういうこともあり、父の若書きの作品は確か墨だらけであったように記憶している。しかし、私は子供心に、一般の書家とたいへん隔たりのある父がうれしくもあり、どこか恥ずかしくもあった。気魄と発墨(惜しげもなしに墨を大量につけて書いていく)は、生涯、父そのものであったような気がする。
 「不眠症である」という父の朝は早い。三、四時から起きて明かりをともし、漢文の本を読んでいる。そういう父をたいへん気の毒に思ったことがある。そんな父でも昼食時になると、よく鮮魚を買ってきて三枚におろし、食べさせてくれたりした。太公望の父にとっては自慢のひとつであったかもしれない。私たち家族や周りの者にはたいへんやさしい父であったが、時折、兄と私をつかまえて説教することがあった。「自分の仕事や勉強と全く無縁の友達を持つな、人を助けるな」と言われたが、他人の面倒をよくみる父の言葉であったので、このことを誰に言っていたのか、未だに分からない。
 私が小学一、二年生の頃、奈良県の郡山にある長岡参寥先生の家を訪れた。参寥先生は禅宗の僧侶で、記憶は定かではないが、たいそう大きな屋敷に何方かの依頼により家族で住んでおられた。聖徳太子のように長い髭を生やされ、常に和服を身にまとい、厳しさの中に孤高なる品格を備えた人であった。その頃は、私もあまりに幼かったので、父と先生の会話をすべて理解した訳ではないが、父も厳粛さを持って接していたようである。父は初めて先生と会って以来、先生の人格に惚れ、生涯の漢学の師と仰いでいたようで、「どんな用事があろうとも先生の漢文講座は休んだことがない」と、私が十五、六歳になった頃に言っていたことを思い出す。時には、書道展に先生が招かれたのにお供し、陳列された作品が漢詩で書かれていたため、端から端まで読んでくださったそうである。私がここで敢て言いたいのは、もともと父には漢文の素養があった訳ではないということである。
 書道の先生方に漢文を指導していただける奇特な方がおられることを知り、父は聴講を希望したそうである。人相学などを学んだことのない父であったが、初めてお会いした時、この先生について習うべきだということを本能のように悟ったという。しかし、先生の指導というものは七、八人の少人数制でたいへん厳しく、『史記』や『漢書』を自分のペースで読誦し、次々と進んでいくというものであったらしい。父は全く理解できなかったそうだ。周りのベテランの方々が本をめくる音に合わせ、最初の一、二行だけ目で追い、後はついていけない状態であったという。しかし、父の「先生についていく」という覚悟の念は固く、一所懸命に学んだらしいが、やはり分からなかったと言っていた。父にできることは、ただ参加するだけということであったが、これも実はたいへんなことであったらしい。先生の読誦中、身体の姿勢を少し崩すだけでも叱られるのに、ましてや欠伸などできるはずがない。先生のあまりの厳しさか、書道会の用事のためか、漸次に休む人が増えていったらしい。父の場合、その頃の書道会では無用の存在であったらしく、一度も休まなかったそうである。そんなことをしていたある日、漢文講座と書道会の催しが重なったかどうかは知る由もないが、漢文講座に出席したのは父ひとりだけの日があったそうである。その時、先生は簡単にではあるが詳しく読誦してくださったように思い、父は漢学に啓蒙されたらしい。それ以後、数年が過ぎ、昔から習っていた人は父ひとりになってしまったと聞いている。父のその十数年間(二十代後半~三十代後半)は漢文で明け暮れていたように思うが、書の方面にも発展はあった。

 そして、この間は書だけの師匠を持つということは、ますます不可能になったようである。しかし、長岡先生は書にも造詣が深く、見事な作品を残しておられる。父の展覧会の作風は、先生の書には少しも似ていないが、小楷においては、漢文の場合は線装本に直接、朱液で書き込んだものだから、似ているように私の目には映る。このことを父に話すと、似てるかもしれないが水準が全く違うとし、先生の字をかなり崇拝していた。
 私たち家族は、父が亡くなるまで住んでいた大阪市東成区にその当時もいた。先生はわざわざ奈良県から茅屋を訪ね、父ひとりに漢文を教えるために来てくださっていた。父は先生の来る時間を見計らい、机の横にあるタンスの上に、予め自己が揮毫した行草体の条幅作品を貼っておく。それで授業が終わった時に先生から作品に対する注意があったが、それはただ文字の間違いであったらしい。それ以外の指導はほとんど無かったそうである。文字が間違っているとか、読めないとかのただ一言で、どうすれば良いかはおっしゃらなかったらしい。間違っていない時は、一言も作品についてはおっしゃらないのである。当時、父が書を揮毫する刺激はそれだけだったのかもしれない。
 朝から体調が悪く、寝ている日も多かった父であったが、先生の来られる直前に起き、書棚から本を抜き出して意を正して待っている。また、先生のほうも熱があろうとも、病体であっても「病気でない」と言って来てくださる。これらのことは子供心にも、師弟の強い絆に悲しくもあり、偉大でもある奇怪な感動を覚えた。
 何かの行き違いで、父の稽古時間と漢文の時間が重なったことがあり、生徒を無視し、玄関の鍵を閉めて漢文を習ったということもしばしばあったと聞いている。
 先生は書道会に漢文を教えることで貢献されたが、最後の弟子、林田芳園には書の指導もしてくださったと言えよう。「林田君、書芸を大成するには漢文学の力は不可欠であり、これを学ぶことにより、自ずと書に含有する風格というものが変わる。あなたは漢文を一に考えて勉強しなさい」と言われたそうだ。

 以上のように、書家としての活動とはやや異なるが、漢文学の素養により、長岡参寥先生逝去の後『長岡参寥遺稿集』を編纂、長岡先生の編集の『韻偶大成』を『対句墨場必携』に生まれ変わらし『韻偶大成』より対句を抜粋し、読み下しと和訳をつけている。書の方面においては『陳鴻壽の書法』を、悲しいことであるが死の直前まで 『墨場必携 清詩選』の編著に力を注ぎ、完成するには到ったが、まだ製本として出版されていない。しかし、この本については二玄社の編集部の方や、清水光洋さんに残りを託し、近く出版していただける予定となっている。
 父の一生は享年七十歳をもって静かに幕を閉じていった。思い起こせばいろいろな出来事が脳裏を駆け巡るが「父への回憶」第一弾として漢詩の方面から述べてみた。今後も、私の心の中で生き続ける父への思いを「父への回憶」の文章として書き続けていきたい。