父への回憶 二

愁いに耐え


  「父への回憶一」は、父の死後、一気呵成に胸中に蟠るものを吐露したが「父への回憶二」に入って、父の死に対してたいへん感慨深い情に浸り、愁いに耐えられずペンを止めてしまうことが多くなった。人はいう「悲しみは時間と共に薄れていく」と。しかし、私の場合、また父の生徒も同様に、書に携わるごとに遺憾の念が思い起こされる。
 私の書斎はほとんど父の思い出で埋められている。『史記』『漢書』『大漢和辞典』『書道全集』など、これらはまだ書道に対して盲目の頃、不肖の息子である私が書道の路を歩まんことを願い、大金をはたいて購ってもらったものである。『史記』『漢書』においては線装本であり、ある東京の古本屋から送ってもらったが、『史記』の本一冊がたいへん傷んでいたので、父が自分のものと交換してくれた。私が二十三歳くらいの時であった。実のところ、せっかく交換してくれた本も含め、以後十年間、本を開くことはほとんど無かったのだが、現在ではこれらは私の必需品として活躍してくれている。先を読んで考える父の根底には、これらの本がいつか必要となることを予測していたのだ。父は未来を予知するということを常に怠らなかった。昔、父に読んでもらった『碧巌録』の初めに「草むらで角を見つけたら牛と思え」とある。読んでもらった時は何とも思わなかったが、これを読んでくれた意味が最近になって「周りの状況をよく悟れ」と言われていたのだと分かってきた。この言葉により、私は人生において随分と助けられている。
 父の「予知能力」と関係があるかどうか分からないが、父は囲碁を好んでよく打っていた。父が若い頃、書道界でも年輩の先生方の中に碁を癖として好む風習があり、よく人から誘われて打ったらしい。例えば、田中塊堂先生である。父にとってみれば大先輩というよりも、師匠にあたる存在であったくらいの方である。現在も「かな」を学ぶ手本として、田中塊堂先生の「百人一首」「三十六歌選」は最高の法書としてもてはやされている。その先生と一局交えるというのは、私が今考えても信じ難く、社長と平社員が無礼講で友人としてつき合う「釣りバカ日誌」のような関係であった。実際の対局を目の当たりにした訳ではないが、父が私に語ってくれた話の中で知りうるところのもので、たいへんおもしろい出来事であったので、脳裏にあたかもその実際の場面を見たかのように映像となって今も残っている。
 田中塊堂先生が私の父を碁の相手として招いたその時は、いつも先生が開かれた錬成会の最中であったらしい。先生は「かな」作家であるが、漢字や漢文の造詣も深い人物でもあった。先生の開かれる錬成会は、旅館のようなところに門下生を集め、実践指導を行なうというのが目的であったらしい。しかし、午前中に招かれた父は夕方まで先生と碁を打っている。塊堂先生のいる部屋は添削室といって、生徒が作品を携えてきて指導を受けるところであった。生徒たちが作品をしばしば持って来るが、先生は囲碁の手をおもむろに止めて添削を簡単に終え、また、碁石を握る。添削を受けに来る方々は、書道界では父の先輩も少なくないという話であった。父はまな板の鯉のような気持ちで碁を打っていたらしい。現在では、碁を打ちながら添削するというような指導方法は考えられないことである。しかし、本来、書と碁は中国の文人には不可欠であり、高尚な趣味という印象があった。このことについて、生徒は全員、何も文句を言わなかったらしい。碁の腕前については、父は「塊堂先生はアマチュア三段くらいで、私は初段なので、何目か先に碁石を置かせてもらっている」と言っていた。
 田中塊堂先生と父は、表面では「碁と漢文学の友」として交わるのであるが、実は父自身、塊堂先生の「かな」芸術においてもたいへん崇拝していたらしい。父の「かな」芸術について語ると、父の晩年の「かな」は独特の風格を生み出している。自己の有する漢字の行草体を取り入れた「かな」であった。一見すると、漢字で書いているようにも見えるが、若い頃、塊堂先生の字を学んだことにより「かな」の基礎が含有しているように思う。
 しかし、塊堂先生は、父が先生の字を学んでいたことなどとうてい知らなかったであろう。父は密かに特別な方法で学んでいたのである。この方法というのはたいへん明確なものであるが、実は父の妻、私の母が塊堂先生の弟子であった。母が稽古の時に戴いた手本を父も練習していただけであるが、先日、父の書斎を整理していたら、ていねいにまとめられた塊堂先生の手本集を見つけて、このことだと感じた。「塊堂先生の生徒として書を習うふりをして、手本だけを収集する手本どろぼうがいるくらい、先生の書はすばらしい」と父は私に話してくれた。私が書を学ぶようになり、古典に残る写経美に憧れを持った頃、田中塊堂先生揮毫の写経を目の前に出し「これを学べ」と言ったことを今は思い出す。
 以上のように、父の趣味に「囲碁」があり、もうひとつ「魚釣り」という趣味もあった。これも私が幼少の頃、父が語ってくれた話のひとつだが『史記』の中に太公望の話が記載されている。「太公望はまっすぐの針で魚釣りをし、当時の時代の政治のことを考えていた」と。この伝説を父が意識していたのかは知り得ないが「釣り」にもたいへんこだわりがあった。
 一、ひとりで行くこと
 二、釣れても釣れなくても、空気の良いところを選ぶこと
 三、日本海よりも太平洋の磯釣り
 さて、三番目のこだわりであるが、太平洋より日本海のほうが中国に近いから良いのではという考えもあるが、父の胸中を察すると、実は「大海を望みたかった」ということである。父は寒さを苦手としていた。冬にはラクダのパッチを身にまとう。暖流黒潮の地、それは父にとって心安らぐ常夏の地であったのだろう。天王寺発の夜行列車で串本へ向かう父のリュックは、登山家のものと変わらない。釣り竿さえ無ければ、どこへ行くのか分からない、たいへん奇妙な姿である。革靴、ポロシャツ、背広の上着(私の記憶では父は決してブレザーとは言わない)といったいで立ちで、書道教室で教える服装そのままであった。ただ、釣り帽、サングラスを着けているかという違いだけだ。これは仕事からの帰り、あるいは家での仕事を終えて時間がないからということだけでは無い、父なりのこだわりであったような気がする。「私はただ、釣りにだけ行くのではない。余暇を楽しんでいるのでもない。人生を釣りに行く」と言っていたような。
 仕事とは決して言わないが「精神と身体を健康に戻し、書道界と芸術に立ち向かうのだ」という声が聞こえてくるようである。私もよく父に付いて釣りに行ったことがあるので、こう考えることにした。浜に打ち寄せる波ですら、心を洗ってくれる気がする。ましてや、磯を打つ岩を砕く波は、さらに壮快である。釣れても釣れなくても、竿を振ることに喜びを感じていたのだ、と。しかし、父の身体に無情に吹く風は冷たく塩辛い。休日を迎える前日の夕暮れに、雀の群がる銀杏の木の下にある小学校の塀に沿って、駅へ向かう後ろ姿が脳裏に焼き付いている。いつも華奢な身体にクーラーと竿とリュックをかつぐ姿は、私にはなぜか父が遠くへ行ってしまうような気がして、たいへん寂しく感じることもあった。
 「あくまでも健康のために釣りをしている」というその言葉とは裏腹に、父は近所では釣り名人として名高く、書での活躍を知る人は皆無であった。私の記憶では、父は「幻の魚」と称される石鯛の六十五センチほどのものを二匹も釣っている。目方は四キロを超えていた。兄と私は幼少の頃は「釣り名人・林田先生」という異名のほうが大きく心に響いたのであった。実は、兄も私もこれらの影響もあって、小さい頃から釣り好きであった。
 私が小学校低学年の頃だったと思う(母に聞けばいつの頃であるか詳しく分かるが、敢て自分の記憶をたどることにした)。父の人生でひとつの大きな出来事があった。兄と私を連れ、大和川の堤防へハゼ釣りに行った時のことである。無論、釣りに対してこだわりのある父であるから、和歌山県、三重県以外の地を踏むことは本意ではなく、家族サービスであったと思う。竿を三本携えて行ったのであるが、準備の段階で一本の竿がどうしても出ないことがあり、父はナイフを使って三重になっている竹竿の中から二番目のものを抜き出そうとした。普段は慎重に物事を運ぶ父であるが、その時は勢いあまって右手の薬指を深く切ってしまった。すぐに病院へ行けばよかったのに、父は私たちに釣りを楽しませてから帰った。その間、タオルを指に強く縛って耐えていた。このことから、父の右手の薬指は生涯曲がらぬ指となってしまったのである。
 実はこの頃、書道界でも篆刻を行なう人が徐々に多くなってきていたのだ。父も何度か試してみたらしいが、右手の薬指が曲がらぬために断念してしまった。父はもともと、印が好きであったようで、晩年には中国の名家、韓天衡、高式熊、葉路淵などの篆刻家と交わりを持ち、刻してもらっている。自印収集にはたいへんこだわりを持っていた。また、歴代篆刻家の印の収蔵にも力を注いだ(篆刻にまつわる詳しい話は、いずれ骨董に因むところで述べようと思う)。

自印の一部の紹介。








 父が私たち兄弟や弟子によく言った言葉のひとつに「一度始めた趣味は生涯続けなさい」がある。しかし「釣り」と「囲碁」については、晩年までその趣味を通すに至らなかった。「囲碁」は書道界の役割が多くなったことにより、「釣り」は父が癌を患ってからである。月に一度は仕事を忘れ、磯に登って心ゆくまで竿を振る。大漁だった時には、上本町からタクシーに乗って帰ってきた。大漁の知らせを電話で受けると、家族全員で父の帰りを楽しみに待っていた。にこやかな顔で帰ってくる父を迎えることが、どれだけ幸せであったか。鮮魚をいただきながら聞く釣りの話も、また格別のものであった。
 癌の手術を受け、一度は回復の兆しを見せて退院した父が、休日を過ごすために白浜へ向かったその夜、母から電話があり、釣り竿を持たずに行ったことを知らされた。もともと、病気がちな父であったが、癌に冒された身体は釣りをする意欲まで奪ってしまうものかと、私はやるせない気持ちをこらえて暗黒の空を仰いだものであった。
 父が釣りをしている姿を、詩に表現してみた。


    芳園先生登釣台    芳園先生釣台に登る 
   林園擲筆臨潮居    林園筆を擲ち潮に臨んで居す
   磯上垂絲不羨魚 磯上糸を垂れるが魚を羨にせず
   痩骨迎風心放蕩 痩骨風を迎えて心は放蕩す
   遥観大海意何如 遥かに大海を観て意は如何ぞ

    林田芳園先生は書を少し休んで釣り場へと行き、磯の上で釣り糸を垂らしているが、
    決して魚を釣ることばかり考えているのではない。
    細い痩せた身体に風を迎えて心を自由に解放し、遥かに大海原を望んで何か偉大な
    ことを考えておられるのではないかと思う。