父への回憶 三

文房四宝について

 
 文房四宝の重要度を「一、筆」「二、紙」「三、墨」「四、硯」というふうに、父、芳園は並べていた。

     硯

 まず「硯」から述べると、私が書を進んで勉強するようになった二十二歳の頃、父より譲り受けた硯がある。羅紋硯である。現在、ほとんど見ることのできない希少な「古羅紋硯」であると言ったら、たいていの人に笑われてしまうかもしれない。なぜなら、端渓は古い時代に硯にしたものは「古端渓」といって、たいへん希少とし、骨董価値も高い。それをまねて、羅紋に「古」という字をつけた、ただのジョークだからである。私はこの硯をよく書道の錬成会に持って行ったが、錬成会ではこの硯を出しているだけで先輩方が集まってくる。というのは、この羅紋硯は厚みが五、六センチもあり、縦四十センチ横二十センチのもので、たいへん大きい。それに加えて、墨をためる墨池が一般の硯に比べて深いので、これを見た人はたいてい驚いてしまうのだ。
 「父への回憶一」でも触れたが、父にとっては、バケツ一杯ほど磨った墨を惜しげもなく一気に使うという書の練習方法があったが、それに適うものはこの硯をおいて外になかったのだ。しかも、ただ大きいだけではなく、硯の丘といわれるところが真ん中で墨池のようにへこんでしまっている。だから、これを見た人は必ず「君はよく練習しているね」と言ってくれるのであるが、それは私のせいなどではなく、父の血のにじむような練習の跡に他ならず「最初からへこんでいる」と答えを返すが、それだけでは立ち去ろうとしない。「変わった硯だ。変わった硯だ」という言葉につられて、周りの人も書を揮毫する手を止めてまで見に来る。ただ練習したい私にはたいへん迷惑なことであったが、年を経るにつれて、それがいつの間にか自慢の宝硯へと変わっていった。
 ある時、この硯を見た書道具屋の主人に「羅紋硯というより、むしろ歙州硯だ」と言われたことがあった。つまり、もうひとつ上のランクの硯だという。私はこの言葉に少なからず喜んだ。しかし、この硯の特長で気に入っているのは、墨がよくおりることである。普通の硯なら、月に一、二度は砥石をかけるものだが、父の代から受け継いで以来、一度も砥石をかけたことがないくらいである。そのためか、硯は確かにすり減ってはいく。
 父はこの硯を私に譲った後、墨磨り機を使うようになった。墨磨り機の硯は直径二十二センチの新端渓を二、三面使用し、他に端渓や麻子杭などの類は少し持っていたが、骨董価値のある古端渓類にはあまり興味が無かったのだろう。



   墨

「墨」については、呉竹製の和墨「墨滴幽香」を父は生涯使い続けた。この墨は値段的にはあまり上等とは言えない。しかし、油を燃やした煤で作った油煙墨であり、松を燃やして作る松煙墨より光沢がある。数ある油煙墨の中でも「墨滴幽香」の光沢を気に入っていたようである。中国の明・清時代の古墨を宝のごとく収蔵する書家が多い中、古墨に対して一切興味を持たなかったのは、光沢と墨色に「こだわり」があったからであろう。
 墨色は濃墨をたいへん好んだ。これは父の書法と関係がある。父はよく色紙や蝋箋を使用していたので、これらの紙に濃墨がよく映えたのだ。書法については「渾厚」と「焦墨」の表現であった。「渾厚」は素樸で雄大な感じということで、これを濃墨をもって潤筆はあまり滲まないようにし、厚く厚く墨を乗せ、肉厚の限界の線で表現する。「焦墨」は肉厚限界の線と対照で墨の少ない渇筆に使う。濃墨で「かすれ」を出せば、筆がよじれる効果を利用して餅が焦げたような線「焦墨」を表現する。この「焦墨」は、一般の人から見れば決して瀟洒な美しい線ではないが「気魄」と「幽玄」なる父の世界の奥密を表現していた。

     紙

「紙」には、筆に次ぐ「こだわり」があった。日本の紙と中国の紙の歴史を考えると、日本は終戦後、徐々に色紙が出てきて文様のある紙へ移り、今日では豪華絢爛なものへと発展を遂げている。その証拠に、日本の歴代名家の作品は白の紙ばかりである。中国は逆に、明・清時代に絢爛たる紙が盛んに製作され、紙そのものを鑑賞するまでに至っている。しかし、中華民国時代、文化大革命を経て、そのような紙はほとんど作られなくなってしまった。現在、やっと金をちりばめた「冷金箋」などが出回ってきたが、質が悪く、金が剥がれてしまう。今日では、中国との貿易が盛んになり、容易に中国画仙(箋)が入手できるが、父の若き頃は、手に入るのは日本の画仙(箋)紙、すなわち「和紙」のみであった。これは別に自慢することでもないが、そんな日本の紙が発展していく中、時代の最先端を行ったのは父、芳園であった。
 父は若い頃、清時代の大家、劉石庵が美しい紙に蝋を塗った紙「蝋箋」に書した作品に魅了された。その紙は当時の日本にはなく、金紙、銀紙などで書いてみたりしたが、その趣を得ることはできなかったという。しかし、憧憬は清時代に製作された超豪華絢爛な「絹本」や「蝋箋」にあったのだろう。日本で製作されたあらゆる色紙や文様のある紙を入手しまくり、筆を試みている。そのうちに、父はやっとオリジナルの蝋箋を作る機会を得たりもした。父の残した作品の中にも、蝋箋を模倣したような紙に揮毫したものがある。例えば、龍の文様の蝋箋に超濃墨を盛り、蝋箋の光沢に負けない輝きを出している。書の気魄が満ちて、鑑賞者は字という龍に飲み込まれるような感じさえする。
 先日、父の書斎から絹本や蝋箋がたくさん出てきた。調べてみないと分からないが、日本のものではなく、しかも現在の中国で生産されたものでないことは確かである。おそらく、父は何らかの形で、最終的には清時代末期の絹本や蝋箋を手に入れることができたのではないか。

     筆

「筆」には、かなりの蒐集癖があった。父は昔から口癖のように「いつも一生分の筆を所蔵している」と自負していた。からになったお菓子箱(四十×三十センチの大きめのもの)の中に筆を無造作に放り込み、高いところでは三段ほど積み上げて山のようにしていた。その山を白雪が覆うかのようにナフタリンで筆が埋もれていた。確か木箱と紙箱が各五種類ほどあり、木箱のほうには良いものを入れるといった、箱によるランク分けをしていたようである。
 私が小学校の頃、父は月に一度は薬屋へ工業用のナフタリンを買いに行くように私に命じた。工業用ナフタリンは一般の家庭用とは違い、粉末状で砂糖袋ほどの大きさである。筆箱の中にばらまく時は固まっていないが、十日ほど放っておくと塊ができる。父はそれを時折、砕いては粉末状にしていたものである。
 父が筆を購入すると時は一、二本ということは無く、必ず五本以上、時には一度に数十本であった。要、不要の選択はたいへん慎重ではあるが、一瞬で決めている。使わないものは一本も要らぬという主義で、中鋒から長鋒にかけて、羊毛筆の毛の豊かなものを好んでいた。筆を収蔵する宝箱(=お菓子箱)の中には、古くから収蔵しているので毛先があめ色になったものが多く、一括購入したものの中で、特に味わいの良かったものを後々のために二、三本ずつ残していたようである。これらの筆はすべて市販のものではなく、梅香園主人の指導のもと、筆職人が一本一本ていねいに作ったものである。
 書道界から中国への渡航が頻繁に行なわれ始めた一九八○年代初期、中国名筆の李鼎和や上海工芸の筆を競って購入していた時代があった。父に同行したある中国旅行でのことである。父は全く李鼎和の筆に興味が無かった訳ではないが、筆買い競争を敢て避けるかのように、書法家と筆師(筆を作る人)の話をしてくれた。明時代のある有名な書道家が、どこへ行くにも筆師を同行させたという。「私はそこまではできないが、生涯に書けるだけの筆は十分な蓄えがある。すべて注文して作ってもらったものだが、古くに購入した筆は特に毛の質が良い。どんなに李鼎和が良くても、自分に合わなければ何もならない。私は李鼎和を使う気がないので買う気がしない。歴代の書法家作品を渉猟して、自己の表現したい文字、構想はある。それ以後、構想は変わっても筆の善し悪しの好みまでは変わらぬ」と、父は言い切った。そして、日本人が群がる中国友誼商店の筆売場を後にした。その後「二、三本お土産に買えばよかったのに…」と言った私の言葉は、礼儀と社交を愛する文人気質の父を傷つけたようでたいへん悔やまれた。私は中国大地に流連する父の思いを断ち切ってしまったのであった。
 私が二十歳を少し過ぎた頃であった。ある日、父は私を書斎に呼んで筆について話をしたことがある。その頃はまだ大阪市東成区大今里四丁目の旧家で生活をしていた。父の書斎は二階にあり、一般の人を指導する稽古場としても使用していた。そこは十畳の京間であったので、比較的ゆったりと感じた。西側には大きな窓があり、日差しはそこから入るだけである。東側の北寄りの隅に百六十×九十センチの座卓が置いてあり、父はいつも北側を背にして座っていた。その座卓で正座して書を揮毫する。日本の書家は、元来、座卓で正座して書を揮毫するものであるが、父の場合は積木ほどの大きさの木材を五センチくらいに切って机の下にかませて高くしていた。書斎の北側には別に幅五十センチほどの板の間が東西にあり、そこには床から天井まで本がぎっしり並んでいた。
 父は筆の入った箱を机の下からおもむろに取り出し、箱を開け、ナフタリンの塊をつかみ、まるで上から雪を降らすかのように砕きながら、私に説いて聞かせた。「紙、墨、硯はどのようなものでもある程度は代わりがきく。しかし、筆だけは十分に備えていないと不安で仕方がない。私が書に携わる一番の贅沢なところだ。紙、墨、硯は無くとも、芳園平筆流は朽ちず」と言った父の目線はすでに私の頭上にあり、西の空を臨んで誰か別の人に語るかのようであった。
 父の晩年の筆使いは、むしろ円筆(円みを帯びる線)であるが、五十歳過ぎまでは方筆(角張りのある線)であった。このことを自ら称して「平筆流」と身近な人には触れている。私が初めて展覧会に出品するために、父から手本をもらって練習していく際、筆力萎靡にして自ら筆に腰を作れない状態であったので、敢て筆をはけのように平らにして書いたことがあった。これは応急方法としてとった策であり、平筆流書法とはほど遠いものであったが、確かに少しの筆力と腰(筆が立つ)が備わる父の書法への第一歩であった。
 父にはまた、筆を洗わないという癖があった。父の使用した筆は、必ず墨で固まっている。これらの筆を使う時は、筆先を歯で軽く噛む。一度固まった筆をほぐす方法としては、一番合理的な方法であると私は思う。私が幼少の頃、父が書の稽古をしている時、あるいは書を揮毫している時、父の歯と唇には必ず墨がついていたのはこういう訳である。このことは当時の生徒はすべて知っていた。しかし、父も時代の波に押されたのか、晩年はひたすら筆洗に筆を浸け、筆先がほぐれるのを待っていた。
 偶然かどうか分からないが、父が生涯、師と仰いだ清時代の大家の呉昌碩にも、これに似た癖があったことを私は最近発見した。もと、浙江省美術学院教授、朱頴人先生が呉昌碩の内弟子の呉拂之の指導を受けられた時に知ったのを教えてくださったのである。呉昌碩の場合は、作画した時に用いたらしいが、筆に水分や墨が多すぎると口に筆を銜えて、吸っては水分や墨の量を調整していた。一般の水墨画の場合、雑巾で調整することが多いが、雑巾を使用すると筆先が乱れたり、適量の水分や墨を取ることが難しい。その点、呉昌碩の方法はもとの重厚なる筆の毛の形で、適度の水分、あるいは墨を抜くことができる。父の場合もこのような効果を狙っていたのではないかと、今にして思う。しかし、どちらにしても、呉昌碩も父も筆先につけた唾が筆先をまとめる「唾の効果」を利用していたように思える。筆先に少し唾をつけて書いてみれば、その違いがよく分かるはずである。 
 父の死後、当時のままの紙箱、木箱合わせて七、八個の筆箱が見つかった。これらの筆を全部合わせると二、三百本になり、種類や形式も多岐に渡っている。すべての筆を使い切ってほしかったとまでは言わないが、あまりの多さに?然とした私たち家族にとっては、せめて半分くらいは減らしてほしかったように思えてたいへん残念である。
 古いものになれば、おそらく三十年近くは経っているであろう。私が二十代前半の頃、父はその宝箱から一本の筆を取り出し「十年前に、もう一本この筆が入手できればよかったのに…」と悔やみながら私に言ったことがある。当時はまだ我が家はほど余裕はなかったのだ。たぶん、もう一本あればすぐにでもその筆をおろしていたであろうに…。その筆は現在、使われないまま四十一歳を迎える私の手元にある。私がこの筆をどうして使えようか。いっそのこと、私の目の前に現われないほうが幸せであったかもしれない。父が使ってくれれば良かったのに…。毎日、筆の保存状態を気にして「三十年、毎日、剣を磨いて終に使わず」である。
 父の言った言葉「一生分の筆を所蔵する」は間違いのないことであったが、父の死後、ナフタリンは絶え、すべての筆箱の筆山の底にわずかに白きを見るだけとなった。当時、ナフタリンを筆の上にかけている父の姿を思い起こしながら、目の前にある筆を見れば、自然とまぶたが熱くなってきた。

    訪芳園先生書斎    芳園先生の書斎を訪う
   寂寥書屋曳愁深 寂寥たる書屋 愁いを曳くこと深く
   禿筆乱硯塵半侵 禿筆 乱硯 塵半ば侵す
   往事得詩揮毫日 往事 詩を得て毫を揮うの日
   不知使我涕沾襟 知らず我をして涕襟を沾せ使む

    芳園先生のいない書斎はひっそりとして、深い悲しみを感ずる。
    使っていた筆や硯がほったらかしで、今は少し埃が積もっている。
    昔、先生が漢詩を揮毫していた日を思うと、私はいつの間にか涙が止まらず、
    襟まで濡れるほどになってしまった。