林田芳園美術館

 

父への回憶

 
  はじめに


 父は一書道家である。こんな家庭に育った私もいつの間にか書道を職業として生き、また、私の息子もそうなりつつある。書道家というものが職業的に決して簡単であるわけではない、我々二世、三世、これからぬるま湯に漬かっていけるということはない。父も私も子供が書道家となることを志すことに若干の反対をしていたが、いつの間にか書道芸術とその生き方を父より魅せられたのかもしれない。決して父は平坦な人生を送ったのではなく波瀾万丈な人生を送ったように私は感じられてならない。できるだけ文章にて表面上とらえ難いものも表現したつもりであるが、読者も自己が書道家であるという立場から理解して頂ければ更に深く分かって頂けることと思う。また、ひたすら書道家として生きた父は、その道でやはり出世に対しても全力で力を注いでいるが、この道では七十才逝去はあまりにも早い。父はもっと長生きすれば更に階段を登りつめたであろう。しかし父の性格上、あまりにも美しい正攻法で進んでいくため、時には、堪えがたいこともしばしばあったが、今思えば決して父の考えは間違っていなかったことがよく分かるようになった。父が世を去って七周忌もすでに、終えているが、まだ仏壇に線香を上げに来る人が絶えず、墓参りをしてくれる人も少なくない。命日には、父の生徒さん達が、団体で墓参りをしてくださっている。このことを考えても父の存在の偉大さが私には伝わって来る。しかし、父が逝去した後に分かった父のすばらしいところがたくさん理解できたけどもうすでに遅く残念な一面もあった。今、私にとって父は一番尊敬のできる人であることに気がついた。今後目標としていく人物像でもあり、私自身がいろいろな人生の岐路に立ったら、父ならどうするかと考え、答えが見つかった時には安心して進んでいけるのでこれは、将に「天の声」である。そして、書芸術の方面でもその指導の声が今も聞こえる。以前の父よりの教訓を思い出し学習している。今日まで私も書道の追求に及んで何らかの師を求めて、探してみたが、どうしても父の存在が脳裏から離れず師を持たず、中国で書文化の交流により時には指導を受けたりして学習している。父を目標とする愚息であるがこれから将来品徳というものは、どんなに努力しようと父には及ばないことは分かっているが少しでも近づくように頑張りたいと思う。

                                                                林田暁径